○四万田犬彦 『マルコ・ポーロと書物』 耷出版社
讀了。本書に収録されている「須賀敦子 その文体と背景」という書評の中に、

翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けて見えるということが、ままある。とりわけ詩的言語を相手にしたときにそれは顯著となる。それが何語で書かれたものであるかを問わない。数多くの韻文に接してきた者が翻訳に向かうとき、どのような事態が生じるか。文体と語彙の豊さのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女はこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。(108頁)

という一文がある。この一文を讀んですぐ思い出したのは、故・高橋和巳氏の李商隱の翻訳。漢文の場合、散文であれば、訳者の力量は注釈にあらわれる。だが、詩文の場合、それは如実に現代語譯にあらわれる。たとえば、「楽遊原」(高橋和巳『李商隱』河出文庫。52頁)と題された次の一句。

向晩意不適  晩(くれ)に向(なんな)んとして意(こころ)適(かな)はず
駆車登古原  車を駆りて古原に登る
夕陽無限好  夕陽(せきよう) 無限に好(よ)し
只是近黄昏  只(た)だ是(こ)れ 黄昏に近し

誰が訓読しても、このように讀むだろう。この訓読を、高橋和巳氏は、こう現代語譯する。

日暮れに近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。馬車を命じて郊外に出、西のかた、楽遊原に私は登ってみた。陵(みさぎ)があちこちにある歴史古き高原の空はいましも夕焼に染まり、落日は言い知れぬ光に輝いている。とはいえ、その美しさは、夕闇の迫る、短い時間の輝きにすぎず、やがてたそがれの薄闇へと近づいてゆくのだけれども。

結びの第四句目に注目して頂きたい。結びの一句の末尾を「薄闇へと近づいてゆくのだけれども」と、このような余韻を残すような翻訳は、できるようで、できるものではない。李商隱の翻訳を讀むたびに、高橋さんのことばに對する感性には驚かされる。