故・吉川幸次郎氏が、師である狩野直喜氏のもとを訪れた時のこと。この時吉川氏はまだ三高生。

かしこまる三高生を前にして、まず「火鉢に手をかざしたまえ」といわれ、大学に入って支那文学をやりたいと申し上げると、支那文学の研究とは、本をこまかに読むこと、ただそれだけです。支那哲学となればすこし違います。しかし文学となれば、それだけです。悠然として南山を見るがいいか、悠然として南山を望むがいいか、その一字の差を知ること、それが文学です、といわれた。(吉川幸次郎『他山石語』講談社文芸文庫、「狩野先生と中國文学」より)

それでは若い頃の吉川氏の學問的なスタンスとは?

「大学を出てからまる十年間、朝から晩まで私は中国(しな)の書物だけを読んだ。中国服を着、中国語を話し、親に書く手紙以外の文章はすべて漢文で書いた。相手が分っても分からなくても。中国の学問をおさめるからには生活のすべてを中国人のままにしよう、と私は決心していた」(竹之内静雄『先知先哲』講談社文芸文庫、「人物交差点 吉川幸次郎」より)

時はながれ、吉川幸次郎氏の京都大学講師時代の一こま。予習をしてきていない生徒をにらみ、

「それでは今日は私が読みます。この次からは、君たちが読みなさい」
(中略)
すぐその日の午後から、私は予習に取組んだ。やってみると、二時間の「講読」の予習にどうしても十五時間から二十時間かかる。それも自宅ではできない。
(中略)
ある時も私が読めなかった。すると先生は後に立っていた学生の一人にあてた。それは東洋史専攻の一回生であった。彼はしばらく考えたのち言った。「分かりません」
しかし満三十二歳の吉川講師は許さなかった。
「あなたも中国学を専攻する学生でしょう、分からぬといっても御自分の考というものがおありでしょう。それを述べなさい」(同書、「京都中国学二人の恩師」より)

この時の生徒、竹之内静雄氏は筑摩書房に入社して社長までつとめ、それが縁で、吉川幸次郎氏の全集も筑摩書房から出版された。